2011年9月19日月曜日

九月歌舞伎 その二

新橋演舞場 昼の部

「舌出三番叟」
スキップ。最近は特に観たいもの以外は観ないことが多い。損することもあるが。安い席しか買えないので、そういう見方も可能になるわけだ。

「新口村」
寝不足がたたり寝た… 予想していたことだが。。
隣とその隣の女性が泣いていたので、さぞ良かったのかな。
歌六の老け役はすっかり定着した感がある。しかし、最近のこの人には妙な空回りが目立つように思う。巧い役者だけに、期待をしてしまうから厳しい見方かもしれない。

「寺子屋」
新又五郎の武部源蔵に期待した舞台だが、結果として恐ろしいものを観ることになった。

又五郎は襲名披露に相応しい熱演。どうも右足を痛めていたようだが、かばいながらも、藝風にあった見事な源蔵だった。
と、普通ならここで他も良くて充実の舞台、なんて書くところだが、いやはや、松王丸の出から、吉右衛門が圧倒的。こんな寺子屋初めて観た、かも。
吉右衛門の松王丸は、恐ろしいほど肩の力が抜け、ほぼ完璧な台詞回しに、他の人が真似したならば型を逸脱しそうな見事な緩急の芝居。ビックリしたのは、それ程までの存在感にも関わらず、松王丸と玄蕃の関係が正しく表されているところ。普通なら松王丸が派手に目立ちまくり、玄蕃はその影に隠れさるのだが。ま、これは段四郎を誉めるべきところでもあるな。
吉右衛門の「なに笑いましたか」のくだりも実に良かった。寺子屋は元来、歌舞伎より文楽で良いと思っているが、吉右衛門は歌舞伎の寺子屋の面白さを堪能させてくれた。そしてそれは吉右衛門の寺子屋の面白さである。これは国宝級。
吉右衛門の義太夫狂言の巧さとハラの芝居の深みが、恐ろしいほどの一幕。一幕見席があれば、残りの日通う。そんなレベルです。
ところで個人的な話に過ぎるが、倅が生まれてから、このての芝居は涙無しには観れぬ… 「いつになく後追うたを叱ったときの…」ですでに涙腺崩壊でした…
最後に。この芝居で、いろは送りの前に、待ってました!の声がかかり、焼香の順に、屋号を呼ぶという昨今の程度の低い大向こうが炸裂。明日からやめるべきだ。台無し、という言葉の教科書的見本。

「勢獅子」
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